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奈良と大阪と距離はありますが、天理・三輪・交野市の関係性について書いてみたいと思います。
まずこれまでは十種神宝祝詞に出てくるニギハヤヒ天孫降臨場所ついて探り、排尾(桃尾)を経由して最終的には天理市の石上神宮に遷し鎮め、、、とのように書きました。
ここでは時を越えて、10代崇神天皇時代に、十種神宝がどう遷されたかについて書いていきたいと思います。このことに気づいたのは宮中と石上神宮で毎年祭祀される11月22日の新嘗祭前夜の石上神宮鎮魂祭に初めて参列したときに気づきました。その時は瞬間的に不思議なことがおこり拝殿の中、、それも一番前に座ることになったのです。なので祭祀の一部始終がよく見えて、祝詞もよく聴こえました。
そして唱えられた祝詞を聞いた時、崇神天皇に強く導かれていた私はとても驚きました。
というのも十種神宝鎮魂術を10年ほど前からご指導して頂いていたため祝詞の内容をよく知っていたのですが、その時唱えられたものは少しアレンジされており初めて聞いたものでした。
下記のような内容の(ほんの一部ですが)美しい言霊で組み込まれていました。。。。
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布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
当神宮の主祭神で、国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊(ふつのみたま)」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)と申し上げます。
韴霊とは、古事記・日本書紀に見える国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)がお持ちになられていた剣です。
またその後では、神武(じんむ)天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、無事大和(奈良県)にご到着されるのをお助けになられた剣でもあります。
神武天皇は御即位された後、その御功績を称えられ、物部氏の遠祖 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じて宮中にてお祀りされました。第10代崇神天皇の7年に勅命によって、物部氏の祖
伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷ししてお祀りしたのが当神宮の創めです。
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)
天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神と申し上げます。
天璽十種瑞宝とは、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津神(あまつかみ)から授けられた十種の神宝で、それらには〝亡くなられた人をも蘇らす〟というお力が秘められておりました。
後に饒速日命の御子 宇摩志麻治命(うましまじのみこと)がこの神宝を用いられ、初代天皇と皇后の大御寿命(おおみいのち)が幾久しくなられることを祈られました。これが鎮魂祭(みたまふりのみまつり)の初めになります。その後宮中で韴霊(ふつのみたま)と共にお祀りされていましたが、崇神天皇7年に韴霊と共に現地、石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)に遷されました。
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✳石上神宮ホームページご由緒より↑
http://www.isonokami.jp/about/c2.html
その後、驚いて検索すると、ちゃんとホームページに書かれていたのですが^^!!
そして驚く理由は他にもありまして、崇神天皇時代まで宮中には三種神器あったといわれています。
つまり十種神宝と三種神器が最後に全部そろっていた場所なのですよね。。。そしてそこから別れていった。。
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「三種の神器」(さんしゅのじんぎ)とは
天皇家に代々伝わる宝物で、鏡・剣・勾玉(まがたま)の三種類があります。鏡は「八咫鏡」(やたのかがみ)、剣は「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)、勾玉は「八坂瓊曲玉」(やさかにのまがたま)とそれぞれ名付けられています。
歴代の天皇はこれらの神器を継承することで天皇の地位に就いてきました。神器を譲り受ける儀式こそが、皇位継承の儀式なのです。三種の神器はいわば皇位の証(あかし)といえるでしょう。
今上天皇(きんじょうてんのう)も、昭和六十四年(平成元年)一月七日、先帝の崩御(ほうぎょ)にともなって、「剣璽等承継の儀」(けんじとうしょうけいのぎ)で、神器を継承され、践祚(せんそ)なさいました。(「崩御」とは、天皇が亡くなること。「践祚」とは、天皇の位に就くこと。)
現在、八咫鏡は伊勢の神宮内宮(じんぐうないくう)に、草薙剣は名古屋の熱田神宮(あつたじんぐう)に、また八坂瓊曲玉は皇居吹上新御所(ふきあげしんごしょ)の「剣璽の間」(けんじのま)に奉安(ほうあん)されています。(「奉安」とは、尊いものを安置すること。)
また、八咫鏡の形代(かたしろ)(レプリカ、複製品)は皇居賢所(かしこどころ)に、また、草薙剣の形代は剣璽の間に奉安されています。
竹田恒康さんのサイトから引用させて頂いています。
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驚く理由は私にはまだまだありました。その一つは、物部氏の祖 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が崇神天皇に命じられて遷されたということです。まず下の系図をご覧ください。
(系図はこちらからお借りしています)
伊香色雄命は伊香色謎命と兄弟姉妹で、祟神天皇のおじさんになります。
お姉さんにあたる伊香色謎命は図のように8代、孝元天皇・9代、開化天皇の后であり10代、崇神天皇の母親にあたります。このかたは当時の交野・現在の枚方にあたる意賀美(おがみ)神社のあたりに住居があったといわれていて兄弟そろって交野枚方近辺が古墳説で検証されていますが他にもこんな話もあります
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この頃、肩野物部氏の祖先、伊香色雄命 (いかしこおのみこと)大和から磐船谷を下って
天の川地方に入り、枚方伊加賀に住んで、この沿岸に農耕文化を広める
(『大日本地名辞書』『先代旧古事記』)
(交野市史:交野町略史復刻編より)
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当時の祟神天皇・宮中の
磯城端籬宮跡伝承地(しきみずがきのみやあとでんしょうち)の近くにある、
大神神社は
10代崇神天皇7年に天皇が物部連(饒速日命六世あたり?孫。)の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖・大田田根子を神主として大物主神を祀らせたのが始まりで、日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりし大物主神の子孫である大田田根子に大物主神を祀らせたとあります。
他にも天理市の大和神社も伊香色雄命が同じように祟神天皇から命じられて建立されたと聞いていますから鍵になる兄弟姉妹だな!といつも思います^^
大和神社ホームページより
日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、
宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。
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まとめ♬
●崇神天皇7年まで桜井市(三輪)の宮中には
十種神宝・三種神器(天津神・国津神ということかな)が揃っていた。そこから伊勢や石上神宮に分かれていく
●日本最古伝承、奈良の三つの神社はこの時に建てられた。
(それまではシンプルに磐座信仰のみだったということかな)
●二種神器説、諸説伝承地などあるが鎮魂祭で唱えられているということは、何かしら深い意味がある。
●ニギハヤヒ時代の天孫降臨の場所は石上神宮そのものではない。布留山だったのかな?もしくは明治天皇御手製のように後世に作られた祝詞かな?(建立されたのがずっと後の崇神天皇の御世なので)
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三輪とニギハヤヒについてはまた今後おりをみて書いていきます。この時代は縄文、天津神国津神、色々な分離変化が起こりとても大変だったと思いますが、とっても好きです!^^