⑥天理市ニギハヤヒ降臨(十種神祝詞)~~桃尾の滝編

 

[神仏]明治24年版『神道大祓大全』

 「この画像は『近代デジタルライブラリー』より転載させて頂いています。」より

http://d.hatena.ne.jp/heisai/?of=16  平斎の日記さんより拝借しております

十種大祓(抜粋)

 

大和国排尾の山の麓白庭の高庭に遷座て鎮斎奉り給ふ 

號て石神大神と申奉り代代神宝を以て萬物の為に布留部の神辭を以て

司と為し給ふ故に布留御魂神と尊敬奉 

 

斎に仕奉給ふ物部の神社天下萬物聚類化出大元の神宝は 

所謂瀛都鏡邊都邊八握生剣生玉死反玉足玉道反玉 

蛇比禮蜂禮品品物比禮更に十種神 

甲乙丙丁戊己庚辛壬癸一二三四五六七八九十瓊音布留部由良と由良加之奉る事の由縁を以て

 

 

 

全文はこちら

http://www.geocities.jp/sizen_junnosuke/tokusaooharai.html

 

 

諸説ありますが、祝詞に出てくる大和国排尾の山の場所が、天理市滝本村にある桃尾の滝近辺とも伝承があります。この桃尾の滝のある場所では天理教の中山みきさんが修行されていたと関係者からお聞きしていますが興味深いのは天理教の本部神殿の下には布留遺跡と祭場跡があります。布留という言葉は、ニギハヤヒの幼名と言われたり、ふるべゆらゆら。。十種神宝祝詞そのままでもあり、石上神宮の末社(神田神社)にはこんな逸話があります

 

説話 『烏帽子岩』~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

昔、天理市の布留(ふる)川のほとりに、1人のおばあさんが住んでいました。ある日、布留川で洗濯をしていると、川上から、ひとふりの剣が流れてきました。不思議なことに、この剣の刃に川岸の木の根や岩がふれると、スッスッと見事に切れてしまいます。不審に思ったおばあさんが、洗っていた白い布でその剣を拾い上げてみると、とても立派な剣で、鞘もないのに刃こぼれ1つありません。「これは普通の剣ではない。」と思ったおばあさんは、石上神宮へ奉納しました。正直なおばあさんだということで、神主さんから沢山のごほうびを頂きました。

この話を聞いた、隣に住む欲張りなおばあさんは、もっと何か良い物が流れてくるに違いないと思って、毎朝、早く起きて川に通いましたが、何も流れてきません。
ある日、良い夢を見たので、小躍りして、まだ明けやらぬ川に行ってみました。すると川上から、烏帽子や冠が流れてきました。ばあさんは、さっそく素足になって川に入り、流れてくる烏帽子や冠を拾い、堤に上がりました。やがて夜が白々と明けてきました。明るくなってきてからよく見ると、それは、なんと烏帽子や冠ではなく、そんな形をした岩でした。今、烏帽子岩は境内の右手にあります。また正直ばあさんが布が留めたというので、その土地の名を、布留と呼ぶようになったと言うことです。

http://www.isonokami.jp/map/32.html 石上神宮の歩き方・神田神社より

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元々は天理教会本部境内にあった

三島神社の現在の(移転された名前も変わった)立札よりご祭神↓

 

この布留遺跡には現在何があるかと言いますと、天理教本部神殿の重要祭祀場所の

かんろだい}がありましてそれは陰陽統合、天の甘露を受けとる象徴ともいわれる六角形の台です。

そのかんろだいを組むために開祖の中山みきさんは滝本村から石を運んだといわれいます。

まさに桃尾の滝のある村なのですが、この石は明治時代に政府から没収されたと聞いており今は樹脂製の台と聞いています。これを元に戻すという話もずっときいているし、「早く!100年間何をしているんだ!」とのおばあちゃんの声も生できいたことがあります。そして当時の中山みきさんは、信念を貫いて92歳頃まで何度も何度も留置所に入ることになったと聞いています。

 

 

このことを知る以前から私は色々な宗教家と交流する導きがあり、各祭祀や信仰を教えていただく環境に恵まれてきたのですが、個人的な感想としてはそこからいつもニギハヤヒや十種神宝・磐座祭祀、太陽神を感じて下のように思うようになりました。

 

●明治時代に、ニギハヤヒ血脈、縄文・本来の祭祀が失われそうになり、それを護り継承するために神懸かりが起きたり、信仰宗教たちが生まれたのではないか??

 

●中山みきさんは意味やメッセージをこめて滝本村の石を選んだのではないか??

十種神宝祝詞の伝承地と同じなのは、偶然なのか?)

 

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また桃尾の滝の上にある大親寺では(名前は当時とは変わっていますが)古代、持統天皇と天武天皇のお子様である草壁皇子ともう一人男の子がかくまわれていたとお聞きしています。現在、大親寺の称号は桃尾山で、この山全体を別名ニギハヤヒ山(国見山)と呼ばれているともききましたが^^!(笑)色々気になるところです。

 

追伸※ちなみにそのかんろだいに使われた石切場のポイントなのですが・・・・探すようにと響いてきて。。。汗、5年位探していたらやっとスッキリくる場所に辿りつくことができました。一般的には八つ石の場所といわれているかもしれませんが、そこは長滝町。。。不思議なご縁で地図を頂き私が辿りついたのは滝本村。どこにも掲載されていない場所で、そこが真実かどうかは未知ですが何かあると直感があり十種神宝の導きだと感じています^^祭祀か天文跡かなにか解らないですが巨石のある場所なだけに、ニギハヤヒはここに辿りついたのかな?と思ったりしています^^!これはまた後日桃尾の滝周辺の写真と合わせて、公開できる範囲でアップしますね

 

●明治14年・滝本村の山でかんろだいの石見~年表より

http://www.geocities.jp/atutakai/tosyositu_/nenpyou_/nenpyou1.html

 

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桃尾の滝のすぐ下にある石上神社。地元では元石上神宮伝承があると聞いていますが、どうなのでしょうね^^山から町に移転したと考えるとすっきりパズルがあいますが。。◎

http://plaza.rakuten.co.jp/jinjablog/diary/200910260000/

後に差し替えますが、こちらより写真をお借りしています。

(石上神社の写真がとても綺麗に撮れているサイトです)

 

 

 

 

 

~かんろだい&「八つ石」について~

 

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(❊図はお借りしています)

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http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/news/tape-06.9.15.htm

連載<心のテープ>(06.9.15)天理市のルーツを探る=古代と現代をつなぐ神秘の絆=

より転載になります。天理教関係(多分裏というか、異例の検証だと思いますが)の内容サイトですが興味のある方は参考にご覧ください^^十種神宝や甘露台の石だしについても書かれています。

 

 

つとめの秘儀
布留の地のルーツを探るとき、石上と三輪の中間にある大和(おおやまと)神社の近くに後の天理教祖・前川みきが誕生し、石上の氏子である中山家へ嫁いで来たことが決して偶然ではないことが推察できます。
 大和神社の祭神は大和大国魂大神(やまとたいこくだましいおおかみ)=ニギハヤヒであり、しかもみきの生母は代々大和神社の巫女を出してきた長尾家の出であります。
 みきの神がかりによる開教は天保九年(一八三八)十月二十六日、初め天の将軍と称し、後に元の神・実の神である天理王命の“生身の社”としての五十年にわたる波乱の生涯でありました。
 中山みき教祖は、身の内に入り込まれた神の啓示に従って、難儀不自由な谷底の人々と同じ境遇に落ちるまで家屋敷や田地を施しつくし、無所有の生活を二十年にわたって続けたあと、安産や病気の不思議なたすけをされました。さらに弟子たちにも病いをたすけるための「おさづけ」を伝授し、医薬で治らない多くの病人が霊救に浴しました。事実、当時から入信した人々の九割九分までは命を救われたことが入信の動機でありました。
「おさづけ」は、まさに布留に伝わる神秘な「十種の神宝」の継承・復活ということができます。
 当時の人々は病いを手引きとして、生命は万人に隔てなく神が入り込んで守護されている「かりもの」という真実に目覚め、天の理に合わせて心の「ほこり」を払って勇み立てば、病いの根が切れ「陽気づくめ」の世界に参入できる道を教えられたのです。そして神の「ようぼく」(人材)を「ぢば」に引き寄せ、一れつが自由平等になる世の中への立て替えを望まれたのです。その理想世界建設のシンボルとなるのが「ぢば」に建立される「甘露台」であり、その周りを囲む「かぐらづとめ」の秘儀を教えられたのです。石上神宮には国宝の神楽殿(かぐらでん)が保存されていますが、現に「みかぐらうた」とともに踊る「神楽」が今に復活されています。

 

 

  1. このところやまとのしバのかみがたと
     いうていれどももとしらぬ



     ◆天理市のルーツ
     
     ここで回り道のようですが、しばらく天理市のルーツをさぐってみたいと思います。
     仏教渡来以前の六世紀の頃、石上神宮を氏神とする物部氏は、現在の天理市一帯を根拠地として栄えた大氏族でありました。
     山辺の道の出発点に当たる石上神宮の祭神は、
     布都斯御魂大神=スサノオノミコト
     布留御魂大神=ニギハヤヒノミコト
     とする有力な説があります。布留とはニギハヤヒの別名です。昔、多くの神社で、祭神の称号が改変された歴史があるのです。一方、山辺の道の終点に当たる三輪山にも、同じニギハヤヒ=大物主命が祀られています。
     ニギハヤヒノミコトはスサノオノミコトの第五子で、古事記成立(和銅5年・712年)のはるか500年も前に大和一帯を治めていた偉大な王であったといわれています。物部氏がニギハヤヒの直系であることはいうまでもありません。ニギハヤヒノミコトが生駒山の東側山麓の日下(くさか)に降臨したという伝説から推測して、太古に西方から移住した一族の長であったとみられます。生駒山は一名ニギハヤヒ山とも呼ばれていました。
     その後、六世紀後半に至って蘇我氏との権力闘争に敗れた物部氏は、全国に離散しますが、その祖先が天神から授けられたと伝えられるのが、「十種の神宝」(とくさのかんだから)と「魂振り(たまふり)の神事」であります。
     この魂振りこそは、古事記以後に忘れ去られた日本の真の伝統を受け継ぐ神事なのです。魂が清められ振るい立つとき、病気災難は雲散霧消する神秘が現れ、太古の日本には、そのための神事があったのです。但し、こうした故事は、時間的にも空間的にも、この世の元始まりの次元とは全く異なった歴史的なルーツに過ぎないことを忘れてはなりません。しかしまた、歴史的な根拠のない言説は単なるドグマに堕してしまうことも事実です。教祖が教えられた「十柱の神」「いさみの手」に、古代日本の故事伝説が生き生きと復活していると考えるのは私だけでしょうか。そういえば、石上神宮の一隅に国宝の神楽(かぐら)殿が遺っているのも偶然とは思えません。

    伝統とは何か

     古代史の上から布留の地のルーツをたずねるとき、大和神社の近くに後の天理教祖・前川みきが生誕し、石上の氏子である中山家に嫁がれたことは決して偶然ではないことが分かります。
     大和神社の祭神は、大和大国魂大神=ニギハヤヒであり、しかも教祖の生母は、代々大和神社の巫女(みこ)を出してきた長尾家の出であります。即ち、大和の中でも天理市周辺(特に中山家のあった庄屋敷村)は、最も古い伝統のある土地柄な
    のです。
     ここで、本来の「伝統」とは何を意味するのかをフランスのルネ・ゲノンという哲学者の説から思案したいと思います。
     ゲノンのいう「伝統」とは、「世界の中心」(ぢば)に発る「始原の原理」(元の理)への回帰を目的とする超歴史的な精神性を伝えるものでなければなりません。それは永遠性の復活と、唯一無二の原初の秩序を目指すものであります。
     原初の伝統を受け継ぐ象徴として「聖杯」(平鉢)があり、その中に満たされるのは「不死の飲み物」(甘露)であります。甘露とは古来より言い伝えられてきた言葉です。仏典にも伝えられ、ヒンドゥ教では「ソーマ」と呼び、いずれも「不死
    の飲み物」という意味があります。
    「世界の精神的中心」としての聖地(ぢば)には、必ず天の水(甘露水)を受ける容器、即ち「聖杯」(平鉢)が準備されているのです。
     さらに「世界の中心」を表象するものとして「聖石=オンファロス」(石の甘露台)があります。その材質は、もともと御影石(花崗岩)であり、御影石は昔から「神の石」といわれてきました。ほとんどすべての民族には聖石(オンファロス)
    という象徴物があるということです。ギリシャ語のオンファロスは、「へそ」を意味すると同時に、中心となる車軸をはめる穴(こしき、ハブ)、さらにはあらゆるものの中心を示す意味があるのです。
     以上は、教祖のことを何も知らないルネ・ゲノンという一哲学者の発想によって書かれているのです。ゲノンが直観的に把握した「伝統」の意味を展開すると、時空を超えて彼のいう永遠の理が「ぢば・かんろだい」にそのまま具象化されていることに驚きの念を禁じ得ません。(略)

    甘露台の石出し

    『教祖伝逸話篇』には、明治十四年天理市の東方、滝本村から甘露台の石出しが行われた時の模様が伝えられています。
    『その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖がお居間からお出ましになって、
    「ヨイショ」
    と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーと入ってしまった。
     一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激した、という』
     なお、教祖自らが出向いて選ばれたその石は只の石ではなく、まさに神の石(聖石)であったという話を聞いたことがあります。というのは、滝本村の東北に当たる山の頂上に「八つ岩」と呼ばれる神座があって、大昔、天から降ってきた神剣が
    その岩に当たって飛び散ったものの一つが教祖の選ばれた石であったという話です。これは一つの伝説に過ぎないのかも知れませんが、甘露台の石はどんな石でもよいというわけではないはずです。
     ところでその霊石は、石工が二段目まで形造った時に警察に没収されてしまいます。その事件がいかに神の残念であったかは「おふでさき」にもしるされている通りです。
     それから後は二度と石造りの甘露台を建てる計画はなく、「いちれつすまして」
    後に建立されることに変わったといわれていますように、現在の「ぢば」に建っている甘露台は木製の雛型にほかなりません。
     甘露台の寸法については、六角、六寸、一尺二寸(六の倍数)、三尺、八寸などと定められ、その象徴的な意味についてさまざまに解釈されています。
     教祖ご自身がそばの者に話されたこととしては、「六は六台はじまりの理」という言葉があります。その意味は、十柱の神の中で中心的な理をあらわす月日親神、男女のひながた、および男女の一の道具という六柱の神を指しているのです。また易学では六は水を表し、根源を示す数といわれています。科学的には、すべての生物の細胞、水の分子は六角形を基本としていることが分かっています。
     また、十二段に積み上げられる柱状の台は上下がホゾで組み合わされ、陰陽「二つ一つ」になっていることも重要です。

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八つ石について(奈良県天理市長滝町)

 

長滝町の林道の山深い布留川の源流となるところに、大きな岩があります。この岩は「八つ岩」といわれ、石上神宮の奥の宮として崇められています。その言い伝えによると・・・  「むかし、出雲の国のひの川に住んでいた八岐の大蛇は、一つの身に八つの頭と尾とをもっていた。素戔鳴尊がこれを八段に切断して、八つ身に八つ頭が取りつき、八つの小蛇となって天へ登り、水雷神と化した。そして、天のむら雲の神剣に従って大和の国の布留川の川上にある日の谷に臨み、八大竜王となった。今、そこを八つ岩という。  天武天皇のとき、布留の物部邑智という神主があった。ある夜、夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して一つの神剣を守って、出雲の国から八重雲にのって光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は、夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つ岩は、はじけていた。そして一人の神女が現れて、『神剣を布留社の高庭にお祀りください』という。そこで、布留社の南に神殿を建て祀ったのが、今の出雲建雄神社(若宮)である。」といういわれが残っています。

 

写真と詳細は下記からお借りしています。

http://kanko-tenri.jp/meguru_tenri/05_yatuiwa.html